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戦わず勝つのが兵法なり「武田信玄」から学ぶ

2017-07-15

戦国時代最強の武将として活躍した武田信玄は1521年、甲斐国の守護・武田信虎の嫡子として生まれました。

粗暴で無学であったといわれる信虎は、力で民を支配する悪政を敷き、学問好きで優秀な信玄を疎んじるようになります。

この状況を憂えた重臣たちは信虎を見限り、信玄を擁立して無血クーデターを実現。

信玄が20歳の頃に信虎を追放し甲斐国主となります。

山本勘助を足軽大将として登用するなど、後に「武田二十四将」とも称される最強の家臣軍団を率いた信玄は、武士と農民を差別しない平等主義を掲げ、家法を定めて領地を法治国家とするなど優れた治世者として今なお山梨の人々に愛されています。

そんな信玄の政治哲学の根幹にあったのが、王道思想だといわれています。

中国の戦国時代の代表的な思想家・孟子が体系化したこの思想は「民こそが国家の財産とし、君主に過ちがあれば臣下が誡め、聴かなければさらに誡め、どうしても聴き入れなければ、君主を取り換えても構わない」としています。

また部下に対して常々「戦死は名誉ではあるが善法ではない」と説き、「能く(よく)戦う者は死なず」という言葉も残しています。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という信玄の言葉にも、民を大切にし家臣を思いやりながら正義を貫いた人間性が感じられます。