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豊かな教養で乱世を生き抜く「細川幽斎」から学ぶ
2018-06-10
戦国の混乱を生き抜き細川家を大大名に導いた細川幽斎(ゆうさい)は、織田信長と同じ1534年に生まれました。
室町幕府の幕臣の次男として13代将軍・足利義輝に仕え、時に都を追われながらも信長と組んで足利義昭を15代将軍に就任させることに成功します。
しかしその後は反信長の姿勢を取る義昭と距離を置き、織田家の家臣となったのでした。
本能寺の変で信長が自害したとき、幽斎の嫡子・忠興と明智光秀の娘・ガラシャは信長の命令で結婚しており、光秀とは長年の戦友でもあったため光秀から応援の依頼が届きます。
しかし幽斎は剃髪(ていはつ)し信長に弔意を表すと家督を譲って一線から退くことで光秀には協力しないことを表明します。
その後、和歌や連歌など文芸の才があり公家社会にも顔が広かった幽斎は、豊臣秀吉の参謀として力を発揮します。
秀吉の死後、66歳で迎えた関ケ原の戦いでは東軍の家康側につくことを決断。
忠興も戦功を挙げ、細川家は東軍の勝利に貢献したのでした。
結果、細川家は加増により39万石の大大名となり、幽斎の品格と教養の高さは後の当主たちにも引き継がれていきました。
権力や金銭への欲はなかったといわれる幽斎ですが、情報収集力と時勢を読む冷静さ、時に冷徹にも見える判断を下すことのできる決断力が、今に続く細川家の伝統を築く礎となったのでしょう。