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自由と公益を求めて「板垣退助」から学ぶ
2017-10-08
自由民権運動をけん引した板垣退助は1837年、乾(いぬい)家の嫡男として高知城下で生まれました。
31歳の頃に戊辰戦争が始まると土佐軍の重責を任されて甲府城に入ります。
武田信玄の家臣であった板垣信方を先祖にもつ退助は、甲斐の人々の心をつかむために乾から板垣へと姓を改めます。
江戸城無血開城の後も抵抗を続ける奥州各地を鎮静化するべく会津へと軍を進め、会津藩を降伏させました。
このとき会津藩の敗因は武士と民衆が一致団結しなかったことにあると感じ、人民が全て平等でなければ豊かな国づくりは難しいと痛感します。
これは後に、ごく一部の権力者が実権を握る政府に疑問を抱き、自由民権運動を起こすきっかけになったといわれています。
権力集中に反発し「民撰議院設立建白書」を提出して国会開設に挑んだ退助。
刺客に襲われるという災難に遭いながらも志を貫き、民衆の支持も得ながら61歳で大隈重信と共に日本初の政党内閣を設立します。
しかし、内部分裂などにより4カ月で内閣は崩壊。
政界を引退し、その後は庶民の生活向上に向けた社会活動に私財を投じて身を捧げました。
盲人の按摩(あんま)専業を訴え、女囚の乳児を養育するなど、弱者を救済し自由と公益を追い求めた82年の生涯でしたが、生前には「自分はただ誠心誠意、国に尽くしたに過ぎない」と述べるにとどめました。