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天真らんまんなアイデアマン「後藤新平」から学ぶ
2019-05-17
明治から昭和のはじめに、医師出身にして中央政界に進出し、台湾や満州での都市計画、ロシアとの外交、関東大震災後の東京の復興などに尽力した後藤新平は1857年、現在の岩手県奥州市に生まれました。
仙台藩の家臣の名家でしたが、戊辰戦争で敗れて士籍を失います。
しかし、秀才として知られた新平は、廃藩置県後に着任した県の大参事である安場保和の目に留まり、その将来性を見込まれて医学の道へと進みました。
医師として研さんを重ね、みるみる頭角を現すと若くして病院長に就任し、ドイツ留学も経験します。
さらに新平の関心は、次第に個々の患者の治療から病気の予防へ、そして社会全体の衛生へと発展していきます。
それが中央省庁への勤務、政界進出へとつながっていきました。
新平が日本国内や植民地統治において大切にしたのが、まずは現地の実態や慣習を十分に研究し、現地の風俗を尊重しながら状況に応じて政策を進めることだったといいます。
医師出身の科学的な視点を持つ新平ならではの手法から「科学的政治家」とも呼ばれました。
また太っ腹で気が短かい性格ではあるものの、愛情が豊かで部下に慕われる人間的な面もあったとか。
日本のボーイスカウトの祖でもある新平は「人のお世話にならぬやう、人の世話をするやう、そしてむくいをもとめぬやう」と、いつも少年たちに説いていたそうです。