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至誠を貫く人「松平容保(かたもり)」から学ぶ

2019-11-05

幕末期、混乱極まる京都の治安回復に尽力した松平容保は1835年、美濃国高須藩主の六男として生まれました。

高須藩は尾張藩の小さな支藩ながら徳川御三家に次ぐ家柄の名家で、容保は11歳で北の名門・会津松平家の養子となります。

ここで家訓として「将軍家への忠勤」を厳しくたたき込まれました。

17歳で会津藩主に就任すると養父の代から任されていた房総の警備や、桜田門外での穏便な事態収拾で高く評価されるようになります。

折しも治安が悪化する京都に幕府は京都守護職の設置を決め、容保がその職に任ぜられます。

幕府の形勢が不利な中、貧乏くじともいえる役職に反対する家老もいましたが、容保は「将軍家と盛衰存亡を共にすべしという家訓を守る」と宣言し、その心意気に感激した家臣たちと共に任に当たりました。

しかし、新選組の力も借りて京都の治安を取り戻したものの時代の流れは変えられず、容保が32歳の頃に大政奉還となり、翌年に鳥羽・伏見の戦いが起きます。

会津に戻った容保は鶴ヶ城で籠城戦に出るも降伏。その後は長く謹慎生活を送りました。

後に尾張徳川家を相続することを頼まれますが「これまで数千人の家臣が命を落としたことを思うと自分だけが華やかな場に戻ることはできない」と固辞。

愚直なまでに将軍家への忠心と部下たちへの義を貫いた58年の人生でした。