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岡山の税理士のウェブログ

鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん

2020-06-15

料理として供される前段階にご注目いただきます。

「鶏を如何に捌くか、ひいては人を如何に導き治めるか」。

儒教の始祖・孔子と、その弟子で学問に優れていることから孔子十哲にも数えられている子游(しゆう)が繰り広げた、約2500年前の問答より生まれた故事成語をご紹介いたしましょう。

『論語』によれば、孔子は武城(山東省)の町長となった子游を訪ねたところ、そこで弦を弾き歌に興じる多くの人を目にします。

日頃から「天下を治めるには礼楽を」、つまり社会秩序のための礼節と人心を感化するための音楽を重んじよと説いていた孔子でしたが、子游は未だ小さな地方のトップに過ぎません。

まるで国家を統べるかのように礼楽の道を広めている様を見て「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」(鶏を捌くのにどうして牛を捌く大きな包丁を使うのか)と笑いながら質したのだとか(一説には子游の器と比して任が小さ過ぎる点を指摘したとも)。

これが後に「小事を処するために大がかりな策を採る必要はない」という意となりました。

ところが、この物語には後段があります。

子游が「先生は“道を学べば徳の高い者は人を愛するようになり徳の低い者もよく治まるようになる”とおっしゃったではありませんか」と反論したのです。

孔子は愛弟子に「子游の言う通り!さっきのはただの冗談だよ」と申し開きをした、なんてオチがついていたのでした。

翻って日本にも「大根を正宗で切る」ということわざがありますが、これも孔子の言葉と同じく「そこまでしなくても」という意味合いです。

また英語では「To employ a steam-hammer to crack a nut.」(クルミを割るのに蒸気ハンマーを使う)となるそうで、これではクルミも木端微塵で、おそらくもう食べられませんね・・・。

子游の故事を思い返しても、孔子ですら弟子を評する「刀」選びに失敗して論じ返されたほど、物事の見極めと道具選びは難しいものですね。

ハンマーの選択を誤れば、全て台無しになる結末もあり得ます。

人や事業の「適材適所」、言うは易く行うは難しという教訓を、孔子は身を以て示してくれたともいえるかもしれません。